従って権利と義務の関係は概念的な関係だけとして存在することではなく、それを判断して取り成す交通信号のように‘規則の世界(rule structure)’の中で成ると見るべきだ。図書館でだれも大きな声を出てはいけない規則があって、規則の遵守を通じて読書の自由な権利をうけることができる。サッカーを例にとると競技の途中にある選手もフリーキックを取る権利または資格があるとしよう。この場合なぜみんな選手や観客が‘サッカーゲームの規則’を受け入れていて、それを守ろうと約束をすでに前提しているからだ。約束と約束が互に与えられた申し合わせられる時権利の主張が成立する。約束した通りに行動しようという規則がなければ権利を主張できない。権利の享有は‘共同体の合意’の中で成るものだ。たとえ自身の利害とは距離があるかもしらないが、本質的には自身の福祉を実現して‘みんな人の利益’と‘共同体の福祉’と‘公共の善’を具現しなければならない。個人が権利だという名の下で干渉をうけない自己だけの空間を強く主張する時、共同体の自体の存立が不可能して、それはすぐ自己の存立の根拠も弱くことになる。
規則の適用は国ごとに異なる権利の享有と共に独特な規範の方式で現れるだろう。共同体ごとに法的・制度的・道徳的な基準が異なるからだ。文化的な差によって権利の追求および人権の享有は互に異なる‘共同体的な脈絡’をもつ。‘良心的な兵役の拒否’の問題を置いて見ると分断された国とそれではない国を区分しないで、何の条件と契約がなくて無限に個人の権利を許すことはやさしくないだろう。ここについて‘条件附の権利’を保障するか、または‘無条件的な権利’を保障するかにたいする論難が起きる恐れがある。権利の普遍的な特性を考慮しても、とくに民族の現実と関連がある問題の場合、集団的な権利が個人の普遍的な権利の主張より重要に考えられる状況を上程できる。民族の生存権と関係ある集団的な権利の要請の場合にとくにそうだ。勿論、集団的な権利が公共善をもつ場合、それの正当性をもつ。権利が衝突する時公正な規則が適用されなければならないが、特殊な状況と条件を優先して民族の最高善を上位の価値に置くことができる。集団的な権利を求める第一の条件はみんな人間のヒューマニズムである。すると、個人の利害が奉仕することに還元されることができる。そして、共同体の集団的な自決権は窮極的に個人の権利を守護しなければならない。
もし、規則が人間の人権、とくに自律性を制約する強圧の性質をもつ反民主的なことならその 規則に反する自律権を保護できる主体的な‘拒否の権利’が与えられなければならない。それが穏やかな方式なり急進的な方式なり最小限の‘抵抗権’を享有できなければならない。全体主義的な権力を行使する社会では規則を守ることにとって個人の人権保護のために‘条件的な義務(conditional duty)’の履行をもつしかないだろう。不正義な状況で上司の指示をそのままに従う場合に自分の生存にも害をもたらす。その場合単に命令に従うことで満足しないで、同時に単に人間関係の保存のためにもっと大きな不義を容納することは自身の良心にも違背されて、社会の正義の実現にも違背される。権利だけを強調すると我々はたとえ干渉をうけない個人の領域を確保できるが、他人の福祉や共同体の和合を図ることができるが、全体主義に落ちったり自律的な自我を失ったりする恐れがある。